皇妃エリザベートと落日のオーストリア=ハンガリー帝国(前編) みゅう中欧 ブログ記事ページ

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    皇妃エリザベートと落日のオーストリア=ハンガリー帝国(前編)


    2021-09-02

  • 歴史に名を残した人たちは戦争を勝利に導いた王族や貴族であったり、政治哲学を追求した思想家、科学を発展させた科学者など様々です。しかし時には時代の敗者や歴史に翻弄された人々なども現代に語り継がれています。皇妃エリザベートも激動の19世紀に翻弄された1人と言えるでしょう。衰亡していくオーストリア=ハンガリー二重帝国の時代に生きたエリザベートは、運命に翻弄された被害者と言えるのかもしれません。この記事では皇妃エリザベートとオーストリア=ハンガリー二重帝国について少し解説していきたいと思います。

    19世紀という変化の波に呑まれたオーストリアとエリザベート

    エリザベートの画像

    エリザベートは政治的な活躍をあまりしていない一方、現代でも有名な皇妃と言えるのではないでしょうか?皇妃エリザベート・フォン・エスターライヒ(愛称:シシィ)は1837年にバイエルン王家に繋がるバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれます。

    貴族の子供として生まれたものの政治や王位とは無縁で育ちましたが、まだ15歳であったある日彼女の美貌に見初められたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に求婚されたことによって彼女の人生は一変したのでした。自由に育ってきたエリザベートは16歳で結婚、それまでとは打って変わって厳格なウィーンの宮廷生活に息苦しさを感じてホームシックになったと言われています。1番の理解者であるはずの夫、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とも関係は上手くいかなかったと伝えられており、次第に一人ウィーンから離れてハンガリーやギリシャ、ポルトガル等に逃避旅行を繰り返していきました。また、ウィーンの宮廷生活に嫌気がさしたエリザベートは公務には関心を示さず、あまり出席することはありませんでした。

    衰亡するオーストリア

    窮屈な宮廷生活に苦しむエリザベートでしたが、一方で外に目を向けると彼女が生きていた19世紀という変化の大波は容赦無くオーストリアを衰退させていったのです。少し時代が前後しますが、エリザベートが生まれる前の18世紀末にはフランス革命が起き、その後ナポレオンの台頭、彼がヨーロッパを駆け巡ったことにより中世よりハプスブルグ家が皇帝位を維持してきた神聖ローマ帝国は19世紀初頭の1806年に崩壊します。オーストリア・ハプスブルグ家は1806年よりオーストリア帝国として再編成を余儀なくされます。

    オーストリア帝国と聞くと現在のオーストリアをイメージする方もいるかもしれませんが、内実は現在のオーストリア、チェコ、ハンガリー、クロアチア、スロベニア、更には北イタリア、南ポーランド、セルビア、ルーマニア、ウクライナの一部なども領土として抱えていたのです。それに合わせて領土内で使われていた言語もドイツ語やハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、ルーマニア語、スロベニア語、ボスニア語、クロアチア語、セルビア語、イタリア語など多種多様の結果、多民族多言語国家として存在していました。

    19世紀の前半はオーストリア帝国の名相メッテルニヒによるヨーロッパの勢力均衡政策など一時期はヨーロッパの政治の中心を担いましたが、プロイセン公国の台頭と近代化の遅れによりオーストリア帝国は徐々に衰亡の道を進み始めます。

    エリザベートがまだバイエルンですくすくと育っていた1848年、ヨーロッパ各国で革命の嵐が吹き荒れます。民族の独立運動と自由主義を推し進める1848年革命はメッテルニヒが打ち立てたヨーロッパの勢力均衡、協調政策であったウィーン体制を崩壊させ、当時オーストリア帝国の領土であったボヘミアとハンガリーでも独立運動がオーストリア帝国を大きく揺さぶったのでした。1848年革命はメッテルニヒを追放し、先代のオーストリア皇帝フェルディナント1世を退位させフランツ・ヨーゼフ1世へと皇帝位が譲位されたのでした。


    オーストリアを襲ったのは革命の嵐だけではありませんでした。1859年にはイタリア統一を狙うサルディーニャ王国との戦争に負けてロンバルディア地方を失い、1866年の普墺戦争ではプロイセンに敗北してオーストリア帝国はドイツ統一から除外、そして領土も一部を失うなど帝国の影響力を大幅に失うことになります。こうした外からは戦争への敗北に、帝国内からは言語・民族間の対立に苦心したフランツ・ヨーゼフ1世はドイツ系民族の次に大きな人口を有するハンガリー人を味方につけるため、1867年に妥協を意味する「アウスグライヒ」を行い、「オーストリア帝国」から「オーストリア=ハンガリー二重帝国」へと変化を必要としたのでした。こうして内政、外政両方に問題を抱えていたオーストリアは時代の波に抗えきれず少しづつ衰退していきます。

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