[みゅう]パリ 美術コラム 『ルーアンの大聖堂』クロード・モネ みゅうパリ ブログ記事ページ

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    [みゅう]パリ 美術コラム 『ルーアンの大聖堂』クロード・モネ


    2017-08-22

  • クロード・モネが54歳の時に描いた作品、『ルーアンの大聖堂』を紹介します。

    ●何が表現されているのかよくわからない。

    ここで描かれているのは、ルーアンの大聖堂の西側ファサードです。右下には正面入り口の大きな扉が見えます。その左には、教会の一部であるサン・ロマンの塔があり、塔の上半分は切れてしまっています。画面左端には、大聖堂の裏手に建つ家が見えます。

    ルーアンの大聖堂といえば、「石のレース」と異名をとるほど、ファサードは彫刻で美しく飾られていますが、この絵画のなかで細部は全くと言っていいほど描きこまれていません。

    輪郭はおぼろげに、さまざまな色が隣同士に置かれることで表現されているにすぎません。絵の具が厚塗りされたキャンパスは、粗塗りの壁のように、表面がざらざらしています。

    ●連作とは?

    この絵画はルーアンの大聖堂をテーマにした連作の一枚です。同じテーマを複数枚の絵画で表現することをモネは連作と呼びました。モネは自然観察を重ねることで、どのような光が当たるかによって、私たちの対象に対する知覚は大きく変化することに気づきました。一日の中で、そして季節が変わるごとに太陽の光は対象の色を変え、表層の質感を変えていきます。モネはそれを証明するために、全く同じ構図の絵画を異なる光の下で描いていきます。

    このようにして連作は誕生しました。『ルーアンの大聖堂』の連作のために、モネは30枚の絵画をかきました。そのうちの28枚は全く同じ西側ファサードが異なる時間に描かれています。

    ●作製の背景

    『ルーアンの大聖堂』の連作は、1892年から93年にかけて、数回の滞在によって制作されました。モネは当時ルーアンから60キロメールほど離れた村ジベルニーに住んでいました。そのジベルニーの自宅こそ、あの有名な睡蓮の池があった場所です。

    モネは、この連作を作製するにあたって2月から4月の間、最も日の光の変化が激しい時期を選びました。日の光を受け、大聖堂の外観はこげ茶色から、ブルーになり、ピンク色を経て、灰色になっていく。それぞれの絵画で使われている色調は、その瞬間の光の加減によってモネによって絶妙に選択されています。

    ●モネはどのようにこの絵画を描いたのでしょうか。

    30枚の絵画を同時に描いていなかったとしても、たくさんの絵画を同時に描き進めていきました。一日の中でも、朝、昼前、日中、夕方と光の加減が変わるごとにキャンパスを変えていきました。この絵画は、副題に示すように、朝の光を連想させます。この作品以外に、オルセーは5枚を所有しています。

    5枚の絵画を見比べれば、どのようにしてこの建築物がその時の光のなかに溶け込んでいくか、あるいは、光と影によって際立つかがよくわかります。

    ●構図取りが悪い?

    先ほど確認した通り、塔のてっぺんと、正面の右側の部分が切れてしまっています。

    なぜ全体を入れなかったのでしょうか。美術学校であれば、構図取りが悪い!と叱られるかもしれません。しかしこれには理由があります。

    大聖堂の目の前にあった建物の一室をアトリエにしていたモネは、大聖堂に近すぎたため、建物全体を構図のなかに入れることができませんでした。別の言い方をすればモネは彼が見えるものをそのまま描いたのでした。

    モネが連作を描いた、ルーアン大聖堂

    ●年号とモネの完璧主義

    よく見るとモネはサインの隣に94と番号を入れています。

    これは、年号ですが、モネがルーアンに滞在したのは1892年から93年にかけて。それなのになぜその翌年の年号が記されているのでしょうか。モネは大聖堂の前でそれぞれの絵画を描きましたが、それらのジベルニーの自宅アトリエでさらに仕上げを行いました。モネは書簡の中でこんなことを言っています。

    「ルーアンの滞在は進んでいくが、決して私の『大聖堂』が完成に向かっているとはとてもじゃないが言えない。ああ!作業が進めば進むほど、私が感じ取ったものから離れていくような気がする。絵画を完成させたとのたまう画家がいるとすれば、そいつはなんと傲慢な画家だろう。完成とは、完全、完璧ということだろう。私といえば、懸命に探求し、描き進めるとしても、ものにすることはできず、行きつくとしたら疲労の限界のみだ。」モネがどれほど苦しみながらこれらの作品を生み出していったかは想像に難くありません。ルーアンで制作した絵画は、ジベルニーに帰った後でも何度も再考され、手直しされました。1893年にルーアンを後にしているにもかかわらず、1894年とサインがあるのはそのためです。

    試行錯誤を経て、最終的に画商デュラン・リュエルによるモネの個展を通じて発表されたのは、20作品のみでした。

    ●抽象画は印象派からうまれる

    1870年代(作者30代)の作品(例えば『ひなげし』)と比べ、『ルーアンの大聖堂』の連作がめざすトーンの調和の探求は、モネを現実から遠ざけていきました。大聖堂はもはや絵を描くことの口実にしかすぎず、大聖堂をもとにした光の戯れを、装飾として描いています。モネの後期の絵画は、この傾向がさらに増し、鑑賞者にとっては何を描いているのかわからないような絵画も珍しくありません。しかし、モネの絵画には必ず具体的なモチーフがあり、その限りではモネは抽象画家ではありません。モネを見たロシアの画家カディンスキーが抽象絵画を誕生させました。

    ●モネと連作

    モネはこれ以外にも連作を作製しています。

    1877年には、『サンラザール駅』の連作をすでに書いていますが、それぞれの絵画の視点、構図は一枚一枚すべて異なります。

    その後、1890年に『積みわら』を、そして、1891年には『ポプラ並木』を作製しています。これらの連作はすべて同一視点から描かれています。

     

    ●モネのテーマの変化

    当初モネのテーマは産業化していく社会(駅、列車)や、当時の社会生活(セーヌ河畔で楽しむ人々など)からとられていました。1883年にジベルニーに移ってから、モネはこれらの社会生活のテーマから遠ざかり、積みわら、大聖堂などの非時代的なテーマに映っていきます。睡蓮の連作の制作が始まるのもこのころです。

    ●連作の問題と『睡蓮』の大作

    なぜ大聖堂の連作は、全てオルセーで見ることができないのでしょうか。オルセーが所蔵するのはたったの5枚です。

    ルーアンの連作がすべて一か所に所蔵されていないのはとても残念なことです。連作は、全ての絵画が集まって、一つの完結した作品と言えるからです。しかし、連作はいったんモネのアトリエを出てしまうと、もう一度全部集められることはありません。連作を構成するそれぞれの作品がばらばらに購入されてしまうからです。1907年、国がこの連作で購入したのはたった一枚でした。それ以外の4枚はコレクターからオルセー美術館に寄贈されたものです。連作は不完全な形でしか後世に残らない。そう認識したモネは、連作のすべてを国に寄贈することを思いつきます。それはオランジェリー美術館の『睡蓮』として私たちが知るものとなります。

    (渦)

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