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    クスミティーの自動販売機と150年の歴史


    2017-04-02

  • かわいいパッケージ、お手頃な価格、大きさなどで、今やお土産の定番になったクスミティー。

    3月中旬には、日本に本格上陸とニュースにもなっていましたが、なんと、パリではクスミティーの自動販売機が登場。モンパルナス駅構内と17区の国際会議場であるパレデコングレにあります。今後空港などにも増える予定。

    お茶の自動販売機といっても、紙コップがでてきてそのまま飲むためのお茶ではなく、お茶の葉が缶詰に入って売られているのです。

    お土産にちょうど良さそうな、セット標品や、好きなブレンドがわかっている人は大きめの缶を買うこともできます。                                   

    パリを散策していると、至る場所で目にするクスミティー。実は、すでに150年の歴史があります。 そして、クスミティーの現代の成功は、まったく別の人物の情熱がこの150年の歴史と交差することで生まれました。

    今から150年ほど前のこと。

    農家に生まれた長男パベル=ミカイロビッチ・クスミチョフが生家を出て、サンクトペテルブルクのお茶屋で働き始めます。パベル青年はお茶ブレンドの秘密に夢中になります。

    パベル青年は、製紙業を営んでいた大商人の娘と結婚。1867年、義父はパベル青年に小さなお茶屋を開店するための資金を提供しました。これがクスミティーの歴史の始まりです。

    その後、6人の子供が生まれます。長男のビラチェスラブが店を継ぐことになります。店は拡大し、事業は順調に発展していきます。クスミチョフのお茶屋は、20世紀初頭、ロシアで3本の指に入る規模を持っていました。世界中に11店舗を所有していました。

    1907年、パベルは息子のビラチェスラブを当時の世界経済の中心市であったロンドンに送り込みます。ロンドンの紅茶文化を研究させ、クスミチョフの事業を参入させる土台を作るためです。ビラチェスラブは、すでに持っていたお茶の知識をさらに伸ばし、商才を発揮することでクスミチョフのお茶屋ロンドン1号店を開店します。

    翌年、創始者であるパベルがなくなるとビラチェスラブは、ロシアに戻り事業全体の統括になります。これが、クスミチョフのお茶屋の絶頂期でした。彼のお茶帝国はロシア国内で、51店舗を数えました。

    1917年、不穏な空気を感じ取ったビラチェスラブは、本社をロンドンに移転。そして、パリに一号店を開店します。そして、同年に、ロシア革命が勃発。クスミチョフ一家は、ロシアからの亡命を余儀なくされ、パリに移住します。

    大戦間の数十年、世界中で彼の事業を拡大させることに成功します。ニューヨーク、ハンブルグ、イスタンブールなど各国に店舗を展開しました。

    ところが、1946年、大戦後にビラチェスラブが亡くなり、その息子であるコンスタンタンに事業は引き継がれると、事業は少しずつ傾いていきます。このコンスタンタンは、経営者というよりも、芸術家という人物でした。お茶を愛する気持ちは創始者、先代に負けずとも、事業は上手くいきません。すでに戦争によって痛手を受けていた事業は、破産寸前でした。コンスタンチンは、事業を続けるためにも、悪い条件をのみ、事業継続のための資本を受け入れるしかありませんでした。

    事業が傾くクスミティーが、いま世界中に店舗をひろげ日本に本格上陸するまでになりました。その事業革新をおこなったのは、フランス人の事業化であるシルヴァン オルビです。彼の物語が150年の歴史と交差することで、クスミティーは復活します。

    彼の物語は、次回のブログで!


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