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    冬のレオンに行ってきました!


    2019-01-13

  • クリスマスも近い師走のある日、忙中閑あり、レオンに行ってきました。マドリードからAVE(高速鉄道)で2時間15分で行けちゃうんです、本当に近くなりました。

     

     

    「レオン」という地名、スペイン語でライオンを意味します。レオンの町に入る時に渡る橋の入り口にもりっぱなライオンの彫像があるし、市の紋章もこの通りラインなのですが、実はライオンには全く関係ないのだとか。

     

     

     

    そもそも、レオンという町がどうやって生まれたか、そこに名前の由来もあるようです。

    紀元前1世紀、古代ローマはイベリア半島のほとんどを統治していましたが、北スペインの先住民であるアストゥール族やカンタブロ族をもその支配下にすべく、戦いを繰り広げており、ローマ第6軍団がそのキャンプ地として選んだのがカンタブリア山脈の南麓、ベルネスガ川のほとりのこの一帯。その後、第7軍団がここに常設キャンプを築くようになり、数千人の軍人の生活には様々な需要が生じ、それを供給する職人や商人が住み始めて町が生まれのだそうです。5世紀にローマ帝国が倒れるまで、イベリア半島で唯一、ローマ軍団が駐屯した町、レオン。ローマ軍団を意味するラテン語Legio(レギオー)が名前の由来とされています。

    ローマの軍人の足跡と私たち観光客の足!

     

    現在の街の中心地のほとんどは、紀元3世紀から4世紀にかけて造られたローマの城壁の内側にあるので、街を歩いているといろんなところに城壁跡があり、大聖堂の地下からは古代ローマ浴場の跡が発掘されています。 

    レオンと言えばやはり、ステンドグラスが有名な大聖堂。駅からすぐに大聖堂へ向かいました。

    大聖堂の正面(西側)ファサードは修復中でカバーで覆われていたため、残念ながら一番大きなバラ窓を観ることはできなかったので、この西側ファサードから撮りました。

    半端なく寒い日で、この後、空は灰色の雲で覆われ、今にも雪がふりそうな感じでしたが、そんな弱い陽でもステンドグラスを美しく輝かせてくれました。

     

    主祭壇にもステンドグラスを通して光が入るように造られているんですね。

     

    ステンドグラス総面積は1,800平米。現在修復作業が行われているのですが、気の遠くなるような手のかかる仕事のようです。

     

    そしてコストもまた気の遠くなるようなもの。1平米の修復にかかるコストは40,000ユーロだそうで、単純に1800を掛けると7千2百万ユーロ、日本円にして約86億円強。

     

    いくつかのステンドグラスにはレオンの歴史や大聖堂建築の由来などが描かれています。

    かつてはローマの浴場があった場所に、10世紀に原始的な教会が造られ、11世紀にロマネスク様式の大聖堂が建設され、13世紀に賢王アルフォンソ10世の下、フランスの建築家の指揮で現在のゴシック様式の壮麗な大聖堂の建設が始まりました。

    サンティアゴ巡礼路「フランスの道」にあった重要な町、レオンは昔からスペインの中でもフランスの文化や芸術の影響が大きかったのかも知れませんね。

     

     

    この大聖堂には、西、南、北の3方面に大きなバラ窓がありますが、これは北側のバラ窓。

     

    大聖堂の中には、いくつかの礼拝堂があり、このように名士や権力者が葬られています。

     

    レコンキスタ時代とは、イベリア半島にはいくつかの王国が存在し、キリスト教とイスラム教を縦糸に、それぞれの王国における王位をめぐる争いやそれぞれの王家に仕える有力豪族らの思惑や権力争いを横糸に、権謀術数や戦いが繰り広げられていた戦国時代でした。10世紀に勢力を伸ばし、イスラムを南に押し戻したレオン王国のオルドーニョ2世はこの街に王宮を造り、王国の首都としました。

    敵の敵は味方、王位継承争いで弟軍を討つため兄である国王はイスラム教徒のタイファ国王と手を結ぶこともありました。レコンキスタの戦いで勇猛果敢に戦った武将たちはその論功行賞として、奪回した土地を国王から与えられ、大きな力と土地を所有するようになります。

    レオンの街の入り口に像が建つグスマン・エル・ブエノもそうした武将の一人で、現在もスペインで2番目に多くの地所を所有する貴族の家系の創始者と言われています。

     

    ここがレオンの街で一番の目抜き通り、アンチャ通り(Calle Ancha)

     

    このアンチャ通りに面して建つ「グスマン邸」(Casa de los Guzmanes)はこのグスマン家の邸宅だった建物。

     

    数世紀前にこのアンチャ通りを拡張するにあたり、通りの両側の家屋を少しずつ動かすことになったそうですが、グスマン家は屋敷を動かすことは頑として受け入れず、止む無く、通りの反対側の教会を削って道を拡張したのだそうです

    それがこの教会。

    写真右上、隣家と接する部分を見ると分かるのですが、この教会は削られて奥行は3メートル未満になってしまい、入口を入ると目の前に祭壇があるのみで、ミサをすることもできなくなったため、ミサは他の教会を借りて行うのだとか。

     

    「グスマン邸」の隣に立っているのが「ボティネス邸」(Casa de los Botines)、19世紀にこの地で金融業を始めたカタルーニャ人、ボティネス氏がアントニオ・ガウディに依頼して作った建物です。

    冬空の下、建物の前のベンチにはガウディが座り、その傍らに鳩がとまっていました。

     

    そして、レオンと言えば、はやりバリオ・ウメド(Barrio Humedo)でしょう。

    アンチャ通りの南側の小さな路地にバルやタベルナ(居酒屋)が密集している盛り場で、タパスめぐりに最適な地区ですが、一平米当たりのバルの密集度はスペインで一番と言われています。

    カラフルな建物が並ぶバリオ・ウメド、でも昼間はこんな感じでとても静か。しかし、夜20h00過ぎに通ると、まるで別世界、人と活気が溢れていました。

     

    そのバリオ・ウメドをさらに南へ進みむと、旧市街の外れに近い場所に、素敵な空間、グラノ広場(Plaza del Grano)があります。

     正面奥にはロマネスク様式のメルカド教会、広場を囲むようにバルやタベルナがあります。

    この広場に面してベネディクト会修道院がありますが、今回はこの修道院が経営するホテルに泊まらせてもらいました。

     

    そして、もうひとつ、忘れてはいけないのが、サン・イシドロ教会。

    ここはレオン王国の歴代王とその家族のパンテオンがあることで有名ですが、7世紀のセビリアに生きた学者であり大司教だった聖人でセビリアの守護聖人でもある聖イシドロの遺体を納める教会がなぜレオンに?と不思議に思っていたのですが、熱心なガイドさんの説明を聞いて納得。

    11世紀、フェルナンド1世の時代、レオン王国はイベリア半島で最も大きな力を持ち、アルアンダルスの衰退後、複数のタイファ国に分裂し互いに争っていたイスラム教徒の王たちはレオン国王に税金を納め貢物をして存続を図り、時には他のタイファ国との戦にレオン王国から軍隊の加勢を頼んだりしていました。

    そういう貢物のひとつとしてセビリア・タイファ国の王がレオン国王に献上したのが、セビリアに葬られていた聖イシドロの遺骸で、これを受けてフェルナンド1世はキリスト教世界では重要なこの聖人の教会をここレオンに造ったのだそうです。

     

     

     

    街中を歩いていると、クリスマスデコレーションの中に、見慣れないこんなものが。ガイドさんに尋ねると、この地方独特のクリスマスツリーだそうです。上部にはロウソク、下部には乾パンをぶら下げるのが基本で、そこに各家で独自の装飾を加えるのだとか。

     

    市庁舎前にあった、ちびっこに人気のクリスマスイルミネーション。

     

    本当にさむーい冬のレオンでしたが、歴史を感じて楽しめた一日でした。今度はもう少し暖かい時に来たいなー!

     終わり

    アストルガの旅に続く)

     Lucymama


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