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ボンジョルノ!フィレンツェのガイドの伊藤裕紀子です。
ウッフィツィ美術館では何年も前から拡張工事が行われ、絵画作品の設置場所も頻繁に移動されています。
現時点で一番新しいのは、2019年5月にお披露目された2階の14の部屋です。
これらの部屋には105点の作品が展示され、そのうち3分の1は以前は保管所にあったということです(常設ではない作品は特別展などでお目にかかることができます)
新しい部屋の中でも、16世紀のトスカーナ地方の作品が展示される部屋は壁の色が灰色。
これはフィレンツェの周辺で採石され、ウッフィツィ美術館の建設に使用されている灰色砂岩の色のイメージなんだそうです。
今日はこの区画にある3枚の肖像画をご紹介します。
最初にこの並びを見た時に歓声を上げたのは私だけではないはず!
右から老コジモ、ロレンツォ豪華王、コジモ1世
ルネッサンス期のフィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭し、フィレンツェの支配者となったメディチ家。
その最も重要な当主3人を並べた展示になっていたのですから。
この3枚はそれぞれ違う画家の作品なので、作者や年代ごとの展示するというルールを持っていた以前のウッフィツィ美術館の展示方法では見ることが叶わなかった並びなのです。
1枚目は老コジモ。コジモ・イル・ヴェッキオ、祖国の父コジモとも呼ばれます。
この肖像画の作者はポントルモで1520年ごろに描かれました。
コジモは1464年に亡くなっていますので、死後半世紀以上経ってから描かれた作品なんですね。
15世紀にコジモの横顔を刻んだメダルが鋳造されていて、それをベースに描かれた肖像画です。
メディチ家出身のウルビーノ公ロレンツォの秘書であったゴーロ・ゲーリのために描かれていて、1519年からゲーリはフィレンツェの特別行政官に任命されていました。
コジモの毛織物の帽子と服は上流階級であることの証ですが、それ以外は非常に質素であり、あまり華美な装飾はされていません。
父の築いた銀行業を受け継ぎ発展させたものの、政変でフィレンツェを追放されるという辛苦を経て、政治的に表面に出ることを避けたと言われるコジモ。しかし裏では選挙制度を操作してフィレンツェ政府をメディチ派でまとめました。
このコジモの服装は賢明な彼の処世術の現れなのかもしれませんね。
コジモの背後には月桂樹の木が見えますが、これは「栄光」のシンボルであるとともに、孫のロレンツォを示唆しています。月桂樹の枝が折れているのは、この血筋が暗殺で途絶えたのちにコジモの弟の家系から出たコジモ1世がトスカーナ大公となってフィレンツェを治めることを示しています。
さてその横にあるのがコジモの孫のロレンツォ豪華王、ロレンツォ・イル・マニーフィコの肖像画です。
肖像画の作者はジョルジョ・ヴァザーリ。ウッフィツィ美術館の設計者でもあります。
ロレンツォが亡くなったのが1492年、肖像画は1533年ごろの作品です。
メディチ家のアレッサンドロ(フィレンツェ公)がヴァザーリに自分の先祖を描くように依頼しました。
アレッサンドロの希望によりロレンツォは私服で描かれていますが、袖口に付いている毛皮などから、やはり上流階級の人間であることが見てとれます。
ロレンツォの左上には古代風の奇妙なランプが置かれています。ヴァザーリの説明によれば、仮面の口に炎が灯されるのですが、この明かりが子孫たちに進む方向を指し示してくれるのだそうです。
右の石碑には「美徳が悪徳を打ち負かす」と刻んであります。その上部にある怪物の仮面が悪徳を、壺の口に掛かった美しい仮面が美徳の象徴です。
優れた政治・外交能力を持ち、市民からも絶大な支持を得ていた先祖ロレンツォにあやかりたいという気持ちが見える作品なのですね。
そして3枚目のコジモ1世は、前の二人と全く違って、甲冑を着た軍人の姿で描かれています。
この作品はアニョロ・ブロンズィーノによって1545年に描かれました。
この年、コジモ1世は26歳ですね。
18歳でフィレンツェ公となったコジモは、ハプスブルク家を後ろ盾にしてフィレンツェに中央集権体制を確立し、イタリア戦争で関わりシエナを占領してトスカーナ大公国を成立させました。また海軍を創設してレパントの海戦にも参加しています。
甲冑を着たコジモ1世は軍人としての側面を強調しているのがわかります。
こうしてみると三者三様のメディチ家当主たち。
肖像画も、どのような時代背景なのか?注文者の意図により何を強調したいのか?などを考えて鑑賞すると面白いですね。
メディチ家のTOP3
2021-01-15
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